「新潮」9月号、絲山秋子「作家の超然」(1)

 母ががんになった体験記などいつもは読まないけれど、たまたま私の近親者にがん患者が続けて出たので、「文学界」九月号の小谷野敦「母子寮前」を最初の方だけ読んだ。肺がんの場合、3センチが手術できるかどうかの目安になるそうだ。ほか、やっぱり同じ立場なら私も泣くよな、とか思った。出来事を順々に語り、途中で、補足することがあれば、それもまた順々に語り、語り終えると本筋に戻る、そんな手堅い書き方で回想してゆく。こまかいことまでよく記憶して事実を復元しているなあ、と感心した。もしかしたら、創作が加わってるのかもしれない。だとしても、私は小説ではなく体験記を読んだのだと思う。

 医師は、レントゲン写真を示した。左肺上部に、ナスを横にしたような白い影が、確かにある。それまでに撮ったらしいCTスキャンの図像を、医師はカチ、カチと上から順に示して、肺のその部分に確かに何かがあることを説明したあと、肺がんの恐れがあると告げた。それだけのことだが、とても長い時間のように思えた。母は、「がーん、ってとこですね」と小さな声で言ってみせた。医師は母に、タバコは、と訊き、吸いません、と答えると、アスベストを扱うようなところで働いたことは、と訊いた。母は、おもちゃ工場でちょっと……と言った。どういうおもちゃですか、と訊くので、プラスチックの、と答えると、じゃあ関係ないですね、と医師は言った。
 今は、こんな風に、患者に何でも言うらしい。西洋流のやり方に倣ったものだろうが、患者に知らせないことによって訴訟を起こされることがあるから、というのが主たる理由だ。そこまで本人に言わなくとも、というようなことまで、それから以後、私たちは聞かされることになる。

 たしかにこんな風景だったのだろう。事実は伝わる。しかし、「今は、こんな風に、患者に何でも言うらしい」という「何でも」の感じはまったく伝わらない。訴訟を恐れてかマニュアルどおりの診療を行うようなタイプの医師を描いた最近の小説として、たとえば「読売新聞」連載中の水村美苗「母の遺産」と比べるとわかる。

 ちょうどその日が、最後の嚥下訓練なるものが行われる日であった。医者、嚥下専門のリハビリ師さん、看護婦さんなどが物々しく見守る中でまた行われ、また失敗に終わった。予想通り、医者はふたたび胃瘻の話を出してきた。美津紀は喉元までこみ上げてくるもろもろの言葉を呑み込み、ホームが懇意にしているクリニックがあり、こうなったからには、そこに母を移してから先のことを考えたいと述べた。
 すると医者は突然背中の荷が降りたような明るい顔を見せた。予期していなかった表情であった。少しの抵抗は覚悟をしていたのに、眉根の曇りを解いたその実直そうな面には、やっかいな患者が一人去っていく安堵感が正直に現れただけであった。いつもコンピューターの前で数値ばかり見ていた彼の心に、あの母の姿が一人の人間として訴えかけたことはなかったのだろうか。あるいは、今の日本の医療制度の下では、医者としての義務を粛々と果たすとしたら、ああせざるをえなかったのか。
 考えるのを放棄せざるをえなかったのか。(第二十八回、七月二十四日)

 もしかしたら、これは作家が体験したそのままのことかもしれない。しかし、私は体験記ではなく小説を読んだのだ。仮に実体験だったとしても、その事実の復元をあまり目的としてない文章だ。「背中の荷が降りた」なんて芸の無い慣用句を使っていながら「感じ」はしっかり伝わる。私小説が充分に小説である理由もこのあたりにあるんだろうか。