新訳新釈ドストエフスキー『罪と罰』亀山郁夫、三田誠広

 亀山郁夫による新訳が出たので『罪と罰』を二十数年ぶりに読み返した。昔の読書をほとんど覚えていない。若い私はマルメラードフの露悪的な端迷惑に嫌悪感をつのらせるばかりで、飛ばし読みだったのである。ところが、いまや五〇歳に近い私はマルメラードフの気分がわかってしまう。それにしみじみした。あわせて秋山駿『神経と夢想』(2003)も読んだ。米川正夫訳を使った評論である。亀山と米川を比べることができたけど、大人の娯楽としてはどっちでも良かろうと思った。新訳各巻には訳者の長い解説がついている。これが理解や観賞の何の助けにもならなかったことは記しておきたい。当時の社会情勢などいろいろ説明してくれてるが、知識のみあって知性を欠く。いかにも最近の解説だ。口直しに小林秀雄「『罪と罰』について」(1934)を読み直した。昔の批評は良かったな。
 三田誠広『新釈罪と罰スヴィドリガイロフの死』も読んだ。中心人物を書き替えた小説である。要するに二次創作だ。著作権保護期間延長を求める団長さんがそんなことして、釈然としないがまあいい。さて、問題の殺人事件を小林や秋山は理由なき殺人として読む。その主題と、よく知られたナポレオンの主題とのふたつの流れが、『罪と罰』では「ついに一致しなかった」と秋山は言う。私もそれに同感だ。対して、三田は一般的なナポレオンの線で事件を解く。ポルフィーリーが「あなたが殺したんです」とついに言う場面をこう書いた。

 観念というのはもろいものでしてね。ナポレオンに憧れるということと、ナポレオンになるということとの間には、天と地ほどの開きがある。犯人はただ憧れているだけなのに、その一線を踏み越えてしまったのですよ。彼は自分の方に刃を向けながら斧を振り下ろした。その時点ですっかりおびえきって、金品の保管場所もろくに探らずにただうろうろしているうちに、妹の知恵遅れの女が帰ってきた。それからまだ部屋から脱出しない間に、二人の客が扉をノックし始めた。あまつさえ小さな留め金だけで留っている扉を揺さぶり始めた。犯人はその恐怖に耐えきれなくなって、熱病にとりつかれたのです。わたしの見るところ、その恐怖を味わっただけでも、犯人は充分に罰を受けている。犯人は自分がナポレオンなんかじゃないただの平凡な人間だということをいやというほど味わったことでしょう。それほど弱い心をもった人物こそが犯人なのです。

 三田と異なる見解を支持する私ながら、ここはちょっと気に入った。反面、こう読んでしまうと、最近の日本で話題になった通り魔たちにくらべて、ラスコーリニコフは古風で可愛いなあとも思う。参考までに同じ場面を亀山訳で引いておこう。

 こいつは、現実離れした、陰惨な事件です(略)ここにあるのは、机上の空論だし、理論によって気持ちが刺激された、それだけです(略)山から転がり落ちるか、鐘楼から飛び降りるようなつもりで決心した、そのくせ、犯行現場におもむくときなんか、まるで足が地についてない。部屋に入ったあとドアを閉め忘れてるくせして、殺すだけは殺している、理論にしたがってです。で、殺しはしたものの、金を盗む勇気もなく、やっとの思いでうばった品物も石の下に隠してしまった。ところが、ドアのかげに身をひそめ、どんどんドアを叩かれ、呼び鈴を鳴らされたときに味わった苦しみだけじゃ足りず(略)人を殺しながら自分を誠実な人間だと考え、世間の連中を見くだし、青白い天使面して歩きまわっている

 私の若い頃の読書ともうひとつ、大きく異なったのはスヴィドリガイロフの印象である。今回はとても彼を魅力的に感じた。浜村龍造に似てるな、とも思った。中上健次もそれを意識しながら『地の果て至上の時』を書いてたりして。三田の味付けもスヴィドリガイロフに工夫を凝らしている。ドゥーニャからスヴィドリガイロフを誘った面もあるように書いたところが気に入った。また彼女を高慢な女とした。その高慢さが、ソーニャの卑屈なまでの謙虚さと対照を成す。つまり、似た所のある二人の男をそれぞれ、片方の女は自殺させ、片方は救いに導くというわけだ。