「新潮」12月号、山崎ナオコーラ「この世は二人組ではできあがらない」

 別れても別れたことになってない腐れ縁の男と女。女は月にいくばくかの金を貢ぎ続けて男の夢を支える。派手な展開は無い。特に芸も無い文体で、断片的なエピソードの積み重ねで、ぢわぢわ状況を変えてゆく。片方は小説家志望だ。作家自身をモデルにしたと思われる。こう紹介すると、ああしんきくさい大正の自然主義だと思うだろう。が、どっこい山崎ナオコーラの最新作「この世は二人組ではできあがらない」なのである。女の方が小説家である点が平成っぽいか。
 一生懸命書いたようだ。本人のブログには「完全に力を出し尽くしました。自分でも信じられないくらい、やりきった。小説について、ずっと考えた。これは、読んでいただきたい、と思ってしまいます。構成とか、伏線とか、すごく考えたので、できたら深読みしていただきたい。もう、これで山崎ナオコーラ第一期は、終わり。」とある(十一月七日)。
 主人公の学生時代から新人賞受賞の頃までを世相と共に追って見せた。二〇〇二年のサッカーW杯で日本が初めて勝ったロシア戦の夜の騒ぎの一節を紹介しよう。なつかしいというよりは、当時のニュース映像をそのまま書いただけであり、コメントもほとんど当時のマスコミまる写しである。

 渋谷は青い若者の群れで恐ろしい。警官も湧いて出た。道を歩く全員のテンションが高い。こんなに安易に、国の一体感を作ることができるスポーツというものに脅威をかんじる。
 スクランブル交差点では、
「ニッポン、ニッポン」
 と知らぬ人同士が握手をし、ハイタッチを繰り返す。ただのスポーツチームを、国の名前で呼ぶのはやめて欲しい、と私は思っていた。

 ほかにも、「九〇年代にはバブルがはじけて、先の見えない不景気の時代に入り」云々など、この種の凡庸な世情描写はいくらでもある。文学者の目がこんなものでいいのだろうか。石原千秋産経新聞で「テーマが書くことの意味を問うことにあるのは明らかだ。それが切羽詰まった文体で書かれていないところがまたいい」と誉めている(「文芸時評」十一月二九日)。ブログに言う「構成とか、伏線とか」と合わせ、それをわかってあげるべきかもしれない。けれど、やっぱり私はいま述べた不満や冒頭の読後感を改める気にはなれなかった。
 とはいえ、文学の終りを見届けるべく、今年から文芸誌を読み始めた私としては、こんな作品ばかりを読み続ける予定だった。その意味で、今年にたくさん書いてくれた山崎ナオコーラは期待を裏切らない現代的作家だったのである。彼女に退屈しながら、私は自分の読み方が通用しない古臭さを自覚もしていた。

 今、ケータイへ、大学時代に同じゼミだった先輩の椿さんから、「久しぶり、ひまなときにごはん食べない?」とメールが届いた。あとで返信しよう。(「すばる」四月号「ここに消えない会話がある」)

 無文学な一節だ、と私はどうしても思う。これを引用して中井秀明はこう言った、「読みやすさを、読みがいのなさにまで突き詰めた」、つまり、「山崎の書くことの意識は、読むことの息の根をとめたのだ」(「群像」十一月号「山崎ナオコーラの論理学」)。私の読み落とした何かを中井は拾ってくれた。なるほど、それがナオコーラの新しさか。「言葉をこんなふうに扱う書き手は、これまで存在しなかった」。しかし、そうだろうか、とも思う。エクリチュールの零度ってのと似てるよな。それよりひどいということか。