古井由吉『人生の色気』

 今月は新刊がたまって文芸誌を読めずにいる。古井由吉『人生の色気』が出た。この人の単行本はすべて持っている。いまさら買わずに済ませられない。全六回にわたる茶飲み話を一冊にまとめた本だった。回ごとに佐伯一麦鵜飼哲夫、島田雅彦なんて面々が同席していたようだが、由吉の発言だけが収録されている一人語りだ。古井独特の文体で練りに練った小説と異なり、現代読者の高評価を得られる「よみやすい」談話だ。「おもしろい」という声まであがるかもしれない。
 いきなり話はそれるが、「新潮」最新号で平野啓一郎東浩紀が対談している。『ドーン』と『クォンタムファミリーズ』の顔合わせとはすばらしい。とても期待して読んだ。感想はまた触れることもあるだろう。とりあえず、こんなやりとりを引いておく。

平野 文学はどうしても詩みたいに純化しきれないジャンルだと思います。おまけに、アートみたいにクオリティを価格に転化できない。同じ薄利多売でも料理や服はそれが出来ますが。
 いま平野さんがおっしゃった文章のクオリティって、つまり文体ですよね。ところが、文体ほど誰も読んでないものはない(笑)。
平野 今は特にそうです。
 極論を言えば、文体はいまや作家の自己満足の領域なんですよ。
平野 僕のこの十年ぐらいの感触で言うと、文体に対する評価は、本当に、読みやすいか読みにくいかってことだけになってる。ブログの感想を見てても如実です。
 (略)だから面白い物語を作ればいい。単純にそう思います。ただ、その時に、文体のよさこそが、それだけがわれわれの売りなんだというロジックがありますね。純文学は文体だ、エンタメは物語だ、みたいな二分法。蓮實重彦氏が広めたものですが、いまではそれは自滅のロジックです。
平野 うまくいかないですね、それは。

 「面白い物語を作ればいい」という発言には物語信仰がある。「おもしろさ」なら読者はわかってくれるだろう、と信じてる。あるいは、そこだけは作家として譲れないというプライドがある。しかし、山崎ナオコーラや最近の流行歌の歌詞を読んでいると、「おもしろさ」も必須でなくなってると思う。「よみやすい」だけでなんとかやっていけるのではないか。「よみやす」ければついでに「おもしろい」と思ってくれる傾向さえある。対する文体信仰もどうでもいい。純文学とエンタメを文体で区別する徒労は分類学者に任せる。それって本当に蓮實が広めたのだろうか。
 私は古い読書家なので読みやすいだけでは満足できない。『人生の色気』はつまらなかった。田中康夫との対談本(1987)以来かもしれない。あ、DVDだが、井沢元彦との対談(2006)もひどかった。いづれも話し相手に問題があったわけで、本書はそれらよりは良い。内向の世代古井由吉の小説設定を考えるうえで、いくつか参考になった。ふたつ挙げておこう。いづれも由吉を困らせた事態だが、その自覚のうえで書いてきたのが彼だと思う。
 ひとつは「芸術とパトロン」のくだり。内向の世代において初めてパトロンがいなくなった。編集者が作家を銀座で好きなだけ飲ませて育ててくれる時代が終わった。「はたして、芸術がパトロネージュなしに成り立つ市民の営みなのかどうか?僕は、大きな問いだと考えています」。もうひとつは、たとえば「団地という空間」。団地の登場が日本人の性生活を変えた。「団地以前は、閉ざされた空間の中のセックスではなく、人の耳をはばかりながら交わっていました。しかし、またそこにエロティシズムがあったんです」。密室を可能にした団地はエロスを奪う。「晩年の中上健次は、日本家屋がなくなって困った代表でしょう」。
追記。平野東対談に触れたけど、平野本人が自身のブログで、こんなことを書いていた。「他方で古井さんが最近出された『人生の色気』という本を読むと、驚くほど的確に、今、文学が直面している困難が、環境の側から指摘されていて、頭が下がりました。当然といえば当然なのでしょうが、古井さんは携帯電話もパソコンもお持ちでないにもかかわらず、認識としては、我々が『新潮』で対談した内容と、けっこう重なる部分がありました」(十二月八日)。偶然というよりやはり。どちらも小説の困難な時代について考えている。