睦月の一番、群像1月号、多和田葉子「ボルドーの義兄」

 文芸誌をこつこつ読んでみる、なんてことを二十年ぶりほどにやった。感想としては、昔より面白くなってるのではなかろうか。また、異国が舞台になっていたり、異国人が登場したりする作品も多い。つまり、私は日本語で読んでいるけど実際は外国語で語られている台詞がたくさんある、ということだ。
 月末だから今月の一番を挙げておこう。多和田葉子ボルドーの義兄」を。ほぼフランスでの話である。物語を排した断章形式で、章題が漢字一文字のしかも鏡文字になっているのが変わっている。主人公優奈には漢字一文字でメモをとる習慣がある。見聞きしたことの印象をその一字に込めるのだ。その文字を裏返せば印象が再生されるという趣向なのだろう。
 詩のように美しい断章がいくつもある。「競」を全文引いてみよう。タマオとは猫の名だ。「タマオはいつも窓辺にすわって、優奈がドアを閉めて去っていくのをじっと見ていた。優奈は朝、港に入ってくる船と並んで歩いていくことがよくあった。船のいかつい身体は動いていないようにさえ見えたが、それでも優奈より進むのが速いのだった。船はいつも優奈を抜かしていった。勝利に酔って、汽笛を鳴らす船もあった。」。
 もっとも、とりあえず選んだこの章段はむしろ例外的で、ほとんどは言葉、それも外国語をめぐるエピソードである。言葉とは互いに通じ合うための産物のようで、実際は、言いたいことをうまく言えなかったり、すれちがったり誤解したりばかりだ。言葉があるから人は人を理解できない、あるいは、そうした形でしか人は人と関係できない。
 本当に通じた言葉の例は「あったんであんまもん!」(Attendez un moment ! ちょっと待って!)だけかもしれない。呼びかけられた"ボルドーの義兄"は待ってくれたのだ。しかし、それとて、「どうしてひきとめたか、優奈は自分でもわからなかった」とある。「言いたいことなど何もなかった。ひきとめたのは、優奈ではなかったかもしれない」。たぶん、ここが全編のクライマックスだろう。言葉が通じる力のありかが示唆されている。