2月号の蓮實重彦、新潮、「随想」、ユリイカ、「時限装置と無限連鎖」

 世界経済の危機である。マネーゲームが経済を狂わせてしまった、それが現代の資本主義の問題だ、とよく聞く。しかし、昔からのことではないのか。昭和初期の金解禁に乗じたドル買いはマネーゲームに思える。幕末の金貨流出もマネーゲームに思える。もちろん、当時と今の違いがあるだろう。けれど、いまよく聞く声は「ものづくりの原点に帰ろう」だ。違いを意識してるようには感じられない。多くの人が「昔の人はマネーゲームに関心が薄かった」という幻想を抱いているのではなかろうか。
 文学の終りにあたって、むしろ活発になったのが蓮實重彦である。その心情を熱く語ってくれたのが「早稲田文学」1号(08年4月)だった。昨年から私が小説を読みだしたきっかけをひとつに絞れば、このインタヴューの熱さである。明らかに彼は頑張っている。それが私を力づける。
 ここ数年で蓮實は本を次々と出した。最近の文芸誌でも「群像」では映画の時評、「新潮」ではエッセイの連載を、それぞれの一月号から始めている。映画評論家としての彼は、役割を少なくとも七割は終えてる人のように感じた。けれど、「新潮」の「随想」は見逃せない。
 二月号の御題は川口松太郎である。昭和戦前の映画の原作者としてよりも、作家としての川口松太郎を論じている。猛烈なペースで書きまくる川口の書きものを蓮實は、「書かれた場所にとどまるまいとするテクスト」と呼ぶ。「頁を埋めている文字の連なりは、まるで書かれていることを恥じるかのように、みずからに集中する読む意識をそのつど軽くかわし、あたかも、、、」。要するに川口は軽い文章なのだ。人真似だろうが乱作だろうが、恐れず書き飛ばす。それを蓮實は、「歴史終焉後の葛藤のまったき不在」のポストモダンにある日本の「先駆なのかもしれない」と言う。
 これは川口松太郎の再評価なのだろうか。そんなことはないと思う。私が学んだのは、こんな作家は昭和戦前から居たんだな、ということだ。ここで蓮實が川口を例として挙げた諸特徴はマネーゲームと同様、昔からあるものだ。なのに現代特有の問題であるかのような幻想を抱かせている。そして、川口のような作家ばかりになった現代文学は読むに値しないだろう。これは文学の終りまで連想させる幻想なのである。
 「ユリイカ」2月号が水村美苗日本語が亡びるとき』の特集「日本語は亡びるのか?」を組んだ。蓮實はここにも顔を出して「時限装置と無限連鎖」を寄せている。水村の本の基礎にあるのは、「英語の時代がやってきた」、「日本文学のレベルが低下した」というふたつの認識だ。どちらも日本文学の衰滅因である。蓮實は後者の面を全面的に取り上げた。
 『亡びるとき』には、現代日本文学の書き手たちに関し、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」という意見に、筆者も同意を与える場面がある。蓮實が反応したのはここだ、「あるとき以来、日本文学は、個々の作品の質や出来栄えを超えて、社会の中で、誰もがじぶん「より頭の悪い人たち」によって書かれていると見なしがちな環境となってしまっている」。
 長い批評家歴を通して、蓮實自身はこの「あたしなんかより、、、」という種の物言いだけは「周到に避けてきた」と言う。それは「これまでいたるところで起こっていたことの退屈なくりかえしにすぎない」からだ。マクシム・デュ・カンを例に挙げ、こうした物言いが「すでに一五〇年の長い歴史を持っているという事実」を指摘している。昔から言われていたことをさも現代的であるかのように語る歴史の忘却に、『日本語が亡びるとき』もまた加わっているわけだ。
 蓮實重彦は正しいと思う。ただ、私は付け加えたい。川口松太郎とは異なるポストモダンがあるのではないか、『日本語が亡びるとき』に描かれたのとは別の日本文学の終りがあるのではないか。私が興味を持っているのは、それである。