文学界2月号、ドナルド・キーン「日本人の戦争」

 真珠湾から敗戦後までに書かれた日本人の日記を、主に小説家を中心に読み解いた四〇〇枚の長編である。この手の日記で有名な永井荷風高見順山田風太郎はもちろん、伊藤整吉田健一などほかにもたくさん引用されている。新事実や新資料の発見はほとんど無い。けれど、こんなふうに多くの日記がまとめて紹介された研究はあまり無いのではないか。訳者はいつもの角地幸男だ。
 キーンの意図は末尾に明快だ、当時の文学者たちの日記には「戦争という惨禍と変化の時代に日本人であるとはどういうことかが日々記録されている」。文学者の主に公的な場での発言を集めた労作には桜本富雄『日本文学報国会』がある。桜本の研究の多くは戦争責任を追及する怨念に満ちている。対して、キーンはあまり断罪も弁護もしない。彼のコメントの多くは、当時の世情を解説して、読者が日記の本文を理解しやすくするだけだ。それによって当時の日本人の姿を浮かび上がらせていく。
 キーン自身の日本人論が特に語られるわけではない。語れなかったのかもしれない。不可解なのだ。真珠湾の報せを聞いて吉田健一は、「これこそ久しい年月の間我々が待望して居たことなのである」と書いた。彼ほど海外を知りつくした知識人が、「我々の空からは英米が取り払われたのである」という喜びようだ。キーンは「意外である」とコメントするしかない。しかも、吉田に限らず、当時の日本人の多くが似たような爽快感に満たされていたのである。
 あの時代に日本人であるとはどういうことか。思うに、小説家の場合は明快である。谷崎潤一郎川端康成であろうと当時は海外で相手にされてないのだから、日本に居るしか無いのである。荷風がどんなに日本の軍国主義を憎んでも、トーマス・マンのように活動する資格は無かった。これは小説家以外の日本人にも当てはまるだろう。キーンはそうは言わないが、彼の紹介する日記はそれを感じさせる。日本という国と心中するしか無い人たちの、各人各様の心模様である。
 実は私にも吉田健一の記述は「意外である」。吉田は真珠湾の勝利に酔ったわけではない。「空襲も恐れるには当らない」と、早くも「空襲」という語を使って被害を勘定した上で、アメリカとの開戦を良しとした。伊藤整などは開戦を支持するだけでなく、勝利を確信している。意外を通り越して憐憫をおぼえるほどだが、私も同時代に居て日本人全員と運命を共にせざるを得ない、という観点から日記を書けば吉田や伊藤のようになる気もする。
 いくつか、キーンの記述や方法に疑問を感じた。たとえば、日本文学報国会について、「なんら目覚しい業績を挙げなかった」と書いている。『辻詩集』にはっきりふれてないという点だけでも、この書き方は誤解を与える。また、作家の回想よりも「日記の方が、まだしも事実に近いようである」と彼は最後の一文に書いた。これも誤解を与える。事実は本来明快であるかのように思わせてしまう。
 実際のキーンの事実観は単純なものではない。とは言え、キーンが資料を日記に限ってしまい、桜本の集めたような公的発言を軽視しているのは明らかだ。仮に両者が矛盾したとしても、どちらも真の姿であり、むしろその矛盾を読むべきではないか。当時の日本人の本当の不可解さはそこにあると思う。キーンの記述が簡明で読みやすいのはそれを避けているからである。
 「本当の不可解さ」を扱う研究は不可能ではない。たとえば、中山和子平野謙論』の戦時下を論じた章がある。回想と当時の関係者の証言が矛盾して卑劣にさえ映る平野の言動を、中山は混迷した時代を生きる宿命として論じた。この件に関してキーンは、「今となっては、こうした問題で誰が真実を述べているかを判断するのは極めて難しい」と述べるだけである。どちらも真実として扱うべきだろう。
 ついでに、こんなことも気がついた。夏目漱石は日本語で書いた。そうする意義が当時の日本にはあった、と水村美苗日本語が亡びるとき』は書く。彼女は「新潮」2月号に加藤周一の追悼文を寄せ、同じことを述べている。加藤が外国語を使う科学者ではなく、日本の評論家の道を選んだことについて、戦後の「貧しい日本に、日本語で真剣に読み書きしたいと思わせる環境は整っていた」と指摘する。でも、漱石が英語で書いても欧米人は誰も相手にしてくれなかったに違いない。加藤にも世界の舞台が整っていたとは考えにくい。つまり、どちらも日本語で書くしか無かった、という面もあるのではないのか。