新潮昨年12月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」、連載第四回

 「新潮」6月号で星野智幸「俺俺」が始まった。主人公の男性と別の男で人格が入れ替わってしまう話である。「ファントム、クォンタム」と似ている。また、村上春樹の新作『1Q84』Book1 の帯にはこうある。これも「ファントム、クォンタム」を思わせる。

 「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。

 さて、私は『1Q84』を最初の五章まで読んだところだ。おそらく、いま東浩紀もこれを読んでおり、たいへん複雑な気持ちであろう。「俺俺」だけで十分なところ、『1Q84』がまた、主人公が並行世界に移動してしまう話のようなのだ。だとしたら「ファントム、クォンタム」は、発売早々に六十八万部も売れた『1Q84』と競合するという、不幸な星を背負わされたことになる。もともと、「ファントム、クォンタム」は連載第一回で春樹に言及しており、それが重要なテーマを表してもいた。宿命と言えるかもしれない。
 「俺俺」や『1Q84』に無い「ファントム、クォンタム」の特徴は、人格の交代や並行世界間の移動について、量子論多世界解釈を援用し、できるかぎり小説を現実にありそうな話に仕立てていることである。具体的に言うと、『1Q84』では主人公の意識も肉体も並行世界に移動してしまうが、多世界解釈でこれは不可能だろう。「ファントム、クォンタム」では意識だけが転送される。といって、「ファントム、クォンタム」の科学がSFの時間旅行や瞬間移動と同じ絵空事である点に変わりは無いと思う。
 第四回はつなぎのような章だ。第三回において、往人Aは往人Bのかつての信奉者たちと会う。そこで往人Bがテロの計画を持っていたことが語られる。大島理樹の計画では、往人Bは世界Aでテロを実行して死に、世界Bでのテロは起こらない。ところが、前者において往人が行方不明になったのはすでに述べたとおりだ。死ぬのも失踪も似たようなものだから、理樹には不満が無い。しかし、後者においても齟齬が生じたらしく、こちらは彼には容認できなかった。
 非常にあわてて理樹は葦船風子に連絡をとる。不吉な予感を抱きながら、風子は理樹に会いにゆく。風子の暮らしを管理していたプログラム、汐子は、「だいじょうぶ、みんな暗くなったらおうちに帰るんだから、汐ちゃんが連れていってあげるんだから」と言うが、そのとおりになるだろうか。