新潮2月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」、連載第五回

 そのうちみんなが言うだろう、村上春樹1Q84』と「ファントム、クォンタム」は似てる。簡単に検索したところ、一般に公開されてる日本語サイトで、これを指摘してるのはいまのところ私だけらしい。痛快である。
 『1Q84』は9章まで読んだ。青豆さんが並行世界(パラレルワールド)に飛んでしまったことを自覚する章である。同じ状況における「ファントム、クォンタム」の葦船往人Aと比較すると面白い。青豆さんも往人Aも最初に思うことは同じだ、「こんなのSFじゃん!」。続いて思うことも同じだ、「私は狂ってしまったのか」。追記。ちゃんと読み終わると、「並行世界に飛んでしまった」は誤読の可能性が高いですね。
 そこからが違う。大島理樹に教えられているにもかかわらず、往人AはこのSF的境遇を「陳腐」だと思い続ける。並行世界について、「陳腐」とか「退屈」とか「ありきたり」とか「お粗末」とか「通俗的」とかコメントするのが、この小説のまさに安っぽい定型でさえあるのだ。それよりも、往人Aは、自分が狂ってしまったという解釈に固執する。その方がずっと陳腐だと私は思うのだが。
 一方、青豆さんは自分だけで並行世界の可能性を思いついた。そして、自分が狂ったのでなく、世界が変わったのだと結論する。私も往人Aや青豆さんの立場になったらそう思うだろう。その方が健全な思考ではないか。そして、青豆さんはこの新世界に「できるだけ迅速に適応しなくてはならない」と決心する。もとの世界に戻りたい、と思わぬ潔さが非凡である。
 「ファントム、クォンタム」の展開にもどろう。2008年の世界Bでテロが起き、葦船風子が幼くして死んでしまうことを理樹は知った(どうやって?何か私は読み落としてるのか)。そこで、テロを防ぐべく、理樹は2035年の風子の協力を得て、二人の人格を現場に転送する(理樹単独で転送できるはずでは、と私は思っていたが)。しかし、間に合わない。理樹は最後の手段に賭ける。
 この問題に関して、理樹と風子では量子論多世界解釈の見解を異にしている。過去を改変し、2008年に風子が死んでしまえば、2035年の風子は消えてしまう、と理樹は考える。いや、過去を改変しても、それは2035年の風子とは無関係の世界が生じるだけで、もともとの歴史はいまさら何も変わらない、と風子は考える。どちらかが正しいとしたら、それは風子だ、と私は思う。
 しかし、どちらが正しかろうと、行動の主導権は理樹が握っており、彼の危機感に従って話は進み、そこで第五回は終わる。そしてそれが本作第一部の終りでもある。