平野啓一郎『ドーン』(その1)

 ニーチェ「権力の意志」には、「主観を一つだけ想定する必然性はおそらくあるまい」という一節がある。柄谷行人が「内省と遡行」の連載第一回でこれを引用したのは一九八〇年のことだ。私が読んだのはその四年後だったと思う。まだ本になる前だ。この引用には衝撃を受けた。ただ当時は、「二つめの主観があるとしたら、それは無意識のことだろうな」と思って済ませてしまったものだ。
 以前からSFや哲学に親しんでる人は、複数の自分が存在するという事態に、動じること無く向き合えたに違いない。また、そうした場合、複数の自分の多くは可能世界や並行世界に散らばっており、世界の複数性にも問題は重なる。これもなじみの設定だろう。でも、今年から文芸誌を読むようになった私には、複数の自分や世界を扱った小説が新鮮で目に付いた。平野啓一郎『ドーン』もそのひとつである。
 この小説で提起されてる問題に関する、私のお気に入りの回答はまたしても大森荘蔵である。「真実の百面相」から引用しよう(『流れとよどみ』1981)。「カメレオンの本当の色は何だろうか」と彼は書きだす。答えは、「それぞれその場その場の色のどれもが真実の色」だ。これを人間にあてはめてみる。われわれはしばしば、本当の人柄はいつもはその人の奥底に秘められており、特別な瞬間にそれが垣間見られる、と考える。しかし、「真実とは(略)豊かな百面相なのである」。

 人が状況によって、また相手によって、様々に振る舞うことは当然である。部下には親切だが上役には不親切、男には嘘をつくが女にはつかない、会社では陽気だが家へ帰るとむっつりする、こういった斑模様の振る舞い方が自然なのであって、親切一色や陽気一色の方が人間離れしていよう。もししいて「本当の人柄」を云々するのならば、こうして状況や相手次第で千変万化する行動様式が織りなす斑なパターンこそを「本当の人柄」というべきであろう。

 二年をかけて火星に往って還ってきた、人類初の宇宙飛行士のメンバーが主人公の一人である。たった六人が狭い宇宙船に閉じ込められる。すると、同じ顔ばかりを相手にするので、乗員は大森の言う「豊かな百面相」を使う機会が無く、自身もいつも同じ顔を続けることを強いられる。それがストレスになる。次第に彼らの人間関係はよどんでゆき、任務の遂行は困難になっていった。啓一郎が描いたこのシナリオがとても面白かった。三日で済んだ月とは本質的に異なるのである。
 そこだけ描いてゆけば傑作SFになったかもしれない。しかし、未来のアメリカ大統領選や監視カメラを町中に配備した監視社会など、たくさんの要素を盛り込んだ小説になっている。このスケールの大きさを良しとする読者と、約500ページで語りきるには無理があると感じる読者が居るだろう。私は後者だ。でも、この小説を支える、複数の自分に関する啓一郎の「分人主義」はやはり興味深いのである。