平野啓一郎『ドーン』(その2)

 複数の自分、複数の世界、という題材は新鮮ながら、往々にしてかえって主人公の古色蒼然たる幼稚な自己肯定にいきついてしまう。自分のほかにも自分は居るけど、いまのこの自分は一人だけで、それは掛け替えの無い存在なんだ、という考えである。09/08/21 で挙げたような。そこに陥るかどうかは、作品や批評家の価値を全体として判断する時の基準になる。
 『ドーン』に描かれた分人主義の考え方を、作者自身が「週刊朝日」の緊急増刊「朝日ジャーナル」(04/30)で語っている(「他者との関係で現れる別人格をシニカルにとらえず肯定する」)。たとえば、ネット上のコミュニケーションでは、「コミュニティーごとに空気を読んでキャラを変えたり、話題を変えたりして微調整せざるを得ない。すると、相手次第で切り替わっていくいずれの自分も仮面をつけた自分にすぎないと感じて、本当の自分だと信じられない」。だけど、と彼は言う。

 だけど、僕はそれが悪いことだとは必ずしも思わないんですよ。相手によって仮面やキャラを使い分けているのではなく、いずれも本当の自分であると思えばいいのです。多重人格は、他者がいないところで自分の妄想の中で人格が分裂している。それに対して、他者との関係において別人格がそのつど形成されることはシニカルに考えるべきではないと思うのです。それぞれの人格がリンクされた束こそ自分であるということを認めていくしかないのではないか。

 大森哲学との類似がある。私も同感である。小説では、顔まで変えて、自分の分身ならぬ分人(ディヴ)を使い分ける登場人物まで現れる尖鋭な状況が描かれる。そこまでせずとも、ほかの人物たちにとっても分人の使い分けは当然の振る舞いだ。
 しかし、主人公明人(あすと)の妻は悩んでしまう。自分の知らない夫の分人の存在が気になるのだ。たしかに分人主義では恋愛は困難だろう、と思った。恋愛とは、自分と相手において成立する分人どうしの関係だけでは満たされず、相互の存在すべてを賭け合う行為だからである。
 分人主義は本作においていきなり現れた思い付きではなく、平野啓一郎のこれまでの作品の積み重ねの上に生まれたものらしい。「群像」九月号のインタビュー「『ドーン』と分人主義(ディヴィジュアリズム)」で本人がよく語っている。私は平野作品をごくわづかしか読んでない。恋愛の困難についても書かれてきたのだろうか。
 書評では「新潮」十月号の苅部直「薄明の不安と希望」がよくまとまっていた。私には余計に思えた大統領選などの物語も含め、たった2ページなのに全体を論じきれている。旧作品への言及もなされている。そのうえで、彼は作品の後半を高く評価していた。妻と向かい合う自分を明人が「ベーシックなディヴ」として位置付け、それによって人生の危機を乗り越えたことに注目するのである。そこが旧作には無かった本作の夜明け(ドーン)のような明るさだ、と述べる。たしかに、「ベーシックなディヴ」は「幼稚な自己肯定」に近いようで微妙に異なるものがある、とは私も思う。