東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(その10)

 読み終わった。最後は「物語外2」である。一章だけしかなく、その章題は「i 汐子」だ。記号「i」は「ファントム、クォンタム」では第二部に使われていた。「i 汐子」にあたる章は「−1」だった。
 「ファントム、クォンタム」では「ぼくは九年前には結婚できなかった」だった部分が、「往人は」云々になっている。ちなみに、「ファントム、クォンタム」の冒頭は「ぼくは九年前に結婚した」だ。『クォンタム・ファミリーズ』の「第一部」冒頭と同じである。「結婚したぼく」が言う「九年前」ってなんだ、といまになってやっと気になった。常識的に答えておくと、教祖友梨花の世界に転送された後の往人が振り返った九年前だろう。それで疑義が無いか、はまた別として。
 「−1」の「ぼく」と「i 汐子」の「往人」の違いは、「往人」の記憶が「物語内」の干渉を受けていることだ。その意味で「物語外2」は物語の外ではない。もっとも、最後の汐子の発言は「−1」と「i 汐子」で同じなので、「ファントム、クォンタム」の結末も物語の外ではなさそうだ。ただ、『クォンタム・ファミリーズ』の「往人」は「虚構の世界で生き続ける」という自覚をもっている。対して、「ファントム、クォンタム」の「ぼく」は「本当の幸せ」を求めていた。
 「i 汐子」では「ハードボイルドは正義ではない。ぼくたちは世界の終わりに生きる」と書かれた。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を思わせる箇所は「第一部」にもある。往人が「罪」を思い出す直前のあたりだ。また別の箇所で理樹は「この小説は、当時の読者にはほとんど理解されなかったと思います。(略)世界観は、量子脳計算機科学の基本定理に驚くほど似ているからです」とも言っている。
 何度かふれた「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」は1997年から2000年に書かれている。連載第八回が特に重要だ。私は、投瓶論争が『クォンタム・ファミリーズ』の参考になる、と考えてきたけれど、これを読むと投瓶論争の下地が見えてくる。ディックもからむので、ますます興味深い。
 東浩紀はディックの世界にフロイト的な「不気味なもの」を読みとる。簡単に言えば、世界の奥にあって見えないものと、世界のこちら側の見えるものとは、近代においては境界が安定していた、しかし、ポストモダンにおいてそれが崩れ、見えないものが見えてしまう「不気味なもの」が生じる。簡単な要約を続けると、ラカンにおいては、象徴界が「見えないもの」、想像界が「見えるもの」に対応する、と浩紀は考える。これはデリダがすでに指摘しており、浩紀の『存在論的、郵便的』に詳説されていることだ。デリダは、ラカンの「手紙の理論」が「見えないもの」と「見えるもの」を区別したことを批判している。それが投瓶論争につながる。「手紙の理論」は「必ず宛先に届く」という話なのである。また、精神分析シニフィアンの学とするラカンにおいて、「手紙の理論」のシニフィアンは「分割不可能」だ。たぶん、これが意味していることは、ラカンの枠組みでは、ディックや『クォンタム・ファミリーズ』のような、どっちが記号で実体なのか判然としなくなる状況は生まれない、ということだろう。
 ちなみに、ジジェク『汝の症候を楽しめ』所収の「「手紙はかならず宛先に届く」のはなぜか」には、ラカンを擁護したデリダ批判がある。ここで投瓶通信の比喩がすでに使われている。また、「不気味なもの」について、補足しておくと、「その8」でふれた『ヒステリー研究』の「図」によって説明される。「複数の経路」の矛盾が「不気味なもの」を生む。すると「複数の私」は「不気味なもの」だ。