「IN★POCKET」12月号「対談:永井均X川上未映子」

 「『ヘヴン』をめぐる哲学対話」と題されている。今頃になって知って読んだ。『ヘヴン』の書評や対談をずいぶん読んだけど、これが一番よく議論されている。私が見つけた新聞や文芸誌の書評はすべて百瀬やコジマを中心に書かれていて、それがとても不満だった。しかし、この対談は冒頭から主人公の重要性の確認で始まる。もちろん、百瀬とコジマについても存分に語り合っている。けれど、紹介するとしたら、やはり主人公に関する部分だろう。
 うれぱみん、なんて言葉を発明したりして最初は可愛いコジマが、だんだん説教くさい僧侶のようになる。そして、主人公との対立がはっきりしてしまう場面がある。コジマが、「こうやって会えるだけで、うれぱみん」と言い、主人公が、「僕はそれをきいて思わずわっと泣きだしてしまいそうな気持ちになった」と思うところだ。

永井 ぼくは今ではここがいちばん好きです。
川上 あ、そうですか? 私も好きです、そこ。
永井 どういうふうにぼくは読むかというと、これはコジマの「うれぱみん」的側面がまだあるということを「僕」が発見したんですね。もうこのへんではだいぶ変質しちゃってるんですよ、コジマは。で、変なお化けみたいな、それこそ僧侶になっちゃてるにもかかわらず、コジマはまだ「うれぱみん」って言うんだなという喜びがあって、「僕はそれをきいて思わずわっと泣きだしそうになったというのは、前の友達だったコジマがまだここにいるということを感じて、ここで泣きだしてしまいそうになるんですね。これは共感と裏切りの同時構造が……。
川上 じゃ、これは喪失ではなく再発見ですか。
永井 そうそう。ぼくの読みではね。ここで別れてるんじゃなくて、ここにまだ絆を持ってる。
川上 あ、なるほど。けっこうポジティブですね。
永井 絆を求めてる。でも、絆は失われないんです、ぼくの読みでは。
川上 なるほど(笑)。

 未映子としては、主人公が初めて聞いた「うれぱみん」からこの場面の「うれぱみん」は変質してしまっている、それが悲しくて泣きたくなるのだ、と書いたつもりだった。むしろ絆が失われている表現なのである。どっちかと言えば、私は永井に同感だ。
 ほか、コジマと主人公が絵を見に行ったのに、見ずに帰ってしまうことについては、「なんであれ「一緒に」なんて見られない」ということと、なにより「構造上、コジマの勧誘が成立してはいけない、という理由が大きかったですね」と述べている。また、私が前から気になっていた、「それが僕が最後に見たコジマの姿になった」についてもちょっと触れられている。いやはや、こんなふうに紹介しているときりが無い。