「小説トリッパー」春号、「群像」4月号の朝吹真理子

 旧朝吹山荘を昨年見学した。ヴォーリズ設計の美しい別荘だ。朝吹亮二朝吹登水子の甥で、朝吹真理子朝吹亮二の娘なんだそうだ。昨年十月号「新潮」の「流跡」のようないかにも育ちの良いデヴュー作の作者がこんな人だと聞いて、それだけで真理子のすべてを知り尽くしたような気になってしまう自分が情けない。
 阿部和重の連載対談「小説トリッパー」春号「和子の部屋」に真理子は登場しており、阿部が言うことには、「新潮」の矢野優編集長は「当面「新潮」には朝吹真理子という作家しか必要ないのだとさえ口走りかねなかったほどの強烈なプッシュぶりだった」。真理子のお答えは、「おそれいります。もう帰りたくなってきました」。嫌味でないところが嫌味だよな、なんて、よく考えたら実際はそれほどでもない家柄をここまで意識させてしまうのは、やはり本人の才能なんであろう。阿部との対談は、小説をどう書き終えるかというわりと技術的な話題が中心だった。10/01/22 に紹介した藤野可織や大森兄弟のような素人くささがまったく無い。もちろん今年で二十六歳は若すぎる。口調には背伸びした感があり、内容も乳臭く、阿部が辟易とさせられているのがわかる。それでも、自分は作家なんだ、という歴然とした自覚を発散しており、話すことのすべてが文学にむすびついていた。そのまぶしさは近来まれである。
 「群像」四月号に「家路」が載った。これが二作目だろう。「群像」五月号「創作合評」では絶賛されている。夢のようにとりとめも無く場面が転換してゆくあたり、「流跡」とまったく同じ趣向である。ただ、それだけではどこで書き終えればいいのかわからなくなるはずで、これは自動記述の昔からある問題だが、「和子の部屋」での「切に困っております」という彼女の発言には実感がある。「家路」の締めくくりはなんと夢オチだった。きっと悩んだ末に禁じ手を使ったのだろう。もっとも、「創作合評」はその点にさえ好意的だった。川村湊は、「これは、空間と時間が完全にゆがんでいる」と言う。

 少年時代の男が中年になった自分の夢を見ている。大きく言うと、全部夢の中の出来事ということなんです。少年が中年になった自分の夢を見るというのも不思議な話で、しかもまた、少年が中年になった男から電話が来て起きてしまったので、もう夢をうまく落着完結させることができない。

 夢に限らず異世界ものの作品は流行っている。その種の作品の要点は「時空がゆがんでいるか」だ。どっちが夢でどっちが現実だかわからない、あるいは夢に現実と同様の重みが加わってしまう、そんな不安定さが現代の異世界者には要求される。それが無いと、前にも書いた吉田篤弘『圏外へ』 のように退屈だ。「家路」はこの条件はクリアしているから救いが無いわけではない。ただ、この手はもう使えないだろう。三作目が楽しみだ。「和子の部屋」では「あらかじめ構成を立てましょう」という素人向けのアドヴァイスを得て真理子は喜んでいた。喜んでいながら阿部和重を憐れんでいた、そんな気も私はするのだが。