東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』まつり(その1)

 『クォンタム・ファミリーズ』の書評はネットや文芸誌などでいろいろ読んだ。茂木健一郎、法月倫太郎、佐々木敦小谷野敦宇野常寛前田塁阿部和重斎藤環平野啓一郎など。ぱっとしないのが多い。茂木健一郎を例にとろう。彼はブログで、量子力学多世界解釈によってこの作品における世界の複数性を説明している(10/02/09)。私も「ファントム、クォンタム」で読んでいた頃はそう考えていたが、どうも間違いだった。量子脳と量子コンピュータの理屈の方が『クォンタム・ファミリーズ』の世界観に近い。多世界解釈が正しいから並行世界が実在するのではなく、『クォンタム・ファミリーズ』においては、量子脳はどうしても並行世界を考えてしまうものだし、量子コンピュータは並行世界が実在しようとしまいと情報として同じ扱いをする、のだ(10/01/19参照)。作者本人のTwitter では「おお! 茂木健一郎のQF書評。これはどこかの書き原稿かな。けっこういい!」(10/02/09)とコメントされているが、例によって真面目に読んでないのだろう。それとも、「私の上なる満天の星空と、私の内なる倫理規則」は『純粋理性批判』だ、と書いてあっても許せるわけか。
 期待して読んだのが斎藤環だった(「新潮」三月号)。四ページのうち最後の一ページ半が重要だ。しかし、よくわからない。わかるところまで私流にまとめてみる。
 実現したかもしれないいろんな可能性が、人生にはまとわりつく。それらをデリダの用語を借りて東浩紀存在論的、郵便的』は「幽霊」と呼んだ。『クォンタム・ファミリーズ』では電話が幽霊の転送装置である。この転送は誤配の繰り返しだ。さて、東浩紀桜坂洋の『キャラクターズ』には、「人間は現実に生き、キャラクターは可能世界に生きる。(中略)文学は反復不可能な生を描き、キャラクター小説は反復可能な生を描く」とある。二次創作を連想できればキャラクターの反復は理解できよう。何度も繰り返される二次創作は誤配された幽霊たちにあたる。『クォンタム・ファミリーズ』の登場人物たちも幽霊だ。これが目に見え手で触れる現実の存在となって主人公の周りに集まってくる。以上をまとめて斎藤は、「『QF』は並行世界におけるキャラ(幽霊)の「人間化」(蘇生)を目指した」と述べている。
 この書評の主眼は精神分析的な自己言及にある。そこで、孫の糸巻き遊びを論じたフロイトの有名な論文と、それを批判したデリダの『絵葉書』第二部が参照される。これは『存在論的、郵便的』でほぼ最後に論じられたことであり、簡単に言えば、反復の遊びが自己言及的な思弁を可能にする、ということだ。つまり、さっきのを詳しく引用し直すと、「『QF』は並行世界におけるキャラ(幽霊)の「人間化」(蘇生)を目指した、壮大なる「いないいないばあ」遊びという趣を帯び始めるだろう」。ここまではわかった。続けて斎藤は言う、「ここに東自身の自己言及的な構造を読み込むこともまた避けられない」。あと二段落続くが説明不足の観があり、論理の流れがわからなかった。
 ほか、阿部和重Twitter が目にとまった。「拙作『ピストルズ』との驚くほどの内容上のシンクロ度合いでした」と言っている(09/12/31)。三五歳問題が『インディヴィジュアル・プロジェクション』に由来することは前にも述べたが、『ピストルズ』にも「驚くほど」の類似があるらしい。『ピストルズ』を読み切ったらまた考えよう。