東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』まつり(その2)

 書評よりも作者本人の発言の方が参考になるケースが多かった。たとえば、twitter三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生』に関して、「いままでだれも指摘しませんでしたが、これは元ネタのひとつです」(09/12/25)なんて言ってる。昨年四月に書いたように、初出の段階で私は三浦との関連を考えたけど、この本は知らなかった。読むとなるほど、「人間原理」が説かれている。内容は、輪廻転生を仏教的ではなく論理的に説明した本だった。序章を読んだ限りではトンデモ本である。けれど私だって、輪廻転生はインド人の発想した並行世界への転送ではないか、阿頼耶識デリダ浩紀的幽霊データベースの唯識版ではないか、なんて考えたものだ。
 「文学界」で連載してる「なんとなく、考える」の第二十回(固有名について)で、東浩紀が『存在論的、郵便的』と『クォンタム・ファミリーズ』の関連を解説している。活字になった自作自解としては最も詳しい。たっぷり引用する価値がある。これくらい上手に『クォンタム・ファミリーズ』を解説した人は居ない。

 ぼくはじつは、むかしからこの固有名の謎に深い関心をもっています。固有名が決して確定記述の束に解消できない、それはそれでいいとして、ではその「解消不可能なもの」はどこからやってくるのか。それがどうも理解できない。(中略)−勘のよい読者であればおわかりのように、これはまた「私」の生成の謎でもあります。
 そして『存在論的、郵便的』と『クォンタム・ファミリーズ』はじつは、この観点からするとまさに兄弟のような著作だと言うことができるのです。前者でぼくは(中略)、固有名に宿る「解消不可能なもの」は、決して神秘的に(否定神学的に)解釈するべきものではなく、コミュニケーションのネットワーク(郵便)が引き起こす特殊な効果にすぎないのだ、と主張しました。(中略)
 他方で『クォンタム・ファミリーズ』はまさに(中略)、コンピュータ・ネットワークが入り組み、確定記述の束が発散し、可能世界が露呈してしまった世界において、家族四人がそれぞれ「私とはだれか」を探究する物語として書かれています。そこでは主人公たちは、だれもが同時に複数の人生を生きている。だから人生の記憶は自分の根拠になりえない。しかしかといって、それ以外の根拠があるわけでもない。だからそこで展開するのは、否定神学的な「私」、あらゆる確定記述の彼岸にある絶対的な何かを信じられない主人公たちが、郵便的な別の「私」を求めてさまよう物語です。『存在論的、郵便的』の固有名論から『クォンタム・ファミリーズ』の可能世界設定までは、この観点で見ると一直線につながっている。

 「固有名が決して確定記述の束に解消できない」とは、簡単な例で言えば、たとえば源頼朝を説明しようとして、源頼朝の定義をたくさん並べても不可能だ、ということである。今では、クリプキの説として柄谷行人経由で、たいがいの批評マニアに知られている。ちなみに、そこで使われる説明法はラッセルの、たとえば『数理哲学序説』で読んだ外延的関数と内包的関数の違いの説明と似てる。類例をもっとさかのぼれるのかどうか知らない。とにかく、それがクリプキ以来、可能世界や固有名の問題になったわけだ。浩紀が言いたいのは、頼朝を定義できないなら、同じ理由で「私」とは何かを説明することもできない、ということだろう。
 いろんな可能世界でさまざまな姿をとった「兵士である私」「女優である私」「作家である私」等たくさんの「私の幽霊」が「私」にはまとわりついている。それが「コミュニケーションのネットワーク(郵便)が引き起こす特殊な効果」(誤配)を引き起こす「解消不可能なもの」だ。これが日常で問題になることはあまり無い。でも、『クォンタム・ファミリーズ』では貫世界通信が可能になったおかげで、「私」の身の回りにたくさんの「私」がばらまかれ、「私とはだれか」という問題がむき出しになる。
 昔ながらの自分探しとは違うと思う。「存在は類ではない」。「私」の存在を言語化できない理由は、よくこのアリストテレスの発想で説明されてきた。そんな、「私は表現できない」「私は表現を超えた何かだ」という否定神学が、『クォンタム・ファミリーズ』では通用しないのである。この小説では主人公たちが「郵便的な別の「私」を求めてさまよう」。たとえば、物語内の往人が最後に望んだのは、思わぬ世界に誤配された幽霊たちで仲睦まじく暮らすことだった。