閑話、梨々のその後を

 俳句は素人と専門家の区別がつかないことがあって、第二芸術論でも論点のひとつになっていた。桑原武夫はこれで俳句を批判したのだけれど、素人が傑作を作れる、と考えるだけなら罪は無かろう。たとえば、もう三十年近くも昔のことだと思う、新聞の俳句投稿欄で「木の枝をのぼりつめたる四温かな」というのを見つけて、高校生だった私は感心したことがある。いまだに思い出す句である。最近では、金田一輝のWaby-Sabyというブログの先月27日で見つけた一句を素晴らしいと思った。
  世を捨てるまで繰り返し散る桜
 同じことは短歌でも言える。何度かふれた投稿詩人中村梨々のその後を。彼女のブログの1月24日を読むと、「詩は、今まったく書いていません」とのこと。そのかわり、2月14日から短歌による更新が始まった。最初の一首はこうだ。
  つま先で立って世界が少しだけ変わるくらいの春を待ってる
 今月で三十首を越えた。ほとんど句切れの無い歌ばかりで、すんなりした歌風である。それが感覚の個性を目立たせずふわっと包んでいるのが魅力で、そこは詩も歌も変わり無いようだ。私のいちばんのお気に入りは先月25日の、
  いつまでも明けない夜は魂のこぼれたほうへつながってゆく
 である。今月5日には珍しくこの一首について自分で解説もしている。私にとっていくらか残念なのは、歌人としてはこのまま素人の立場で創作を続けていくことになるのだろう、ということである。良いことかどうかは別にして、彼女の詩には専門家ぽさがあった。詩と短歌で何かが違うらしい。案外大事なことかもしれないけれど、彼女は気にしてないに違いない。