高橋源一郎『「悪」と戦う』(その1)

 私は萎えた頃の高橋源一郎しか知らない。本屋でぱらっと数ページめくって、それだけの作家。ところが、新刊『「悪」と戦う』はパラレルワールドだと言う。気になるテーマなので初めて読んだ。先月二三日「毎日新聞」のインタヴューには、

 1981年のデビュー作『さようなら、ギャングたち』(講談社文芸文庫)の悲劇的な結末には、心残りがあったという。「あの時にやりたかった結末と近いことを、今回書きました。30年かかった」と笑う。

 とあった。デヴューした頃はすごかったんだという評価も知っていたから、これも読んでみた。いやほんと、すごい小説だった。いままで読みもせずに馬鹿にしてきて、ごめんなさい。もう一か所、引用しよう。

 物語は多世界の構造を持つ。兄のランちゃんは、拉致された弟キイちゃんを救うために旅立つ。兄は設定の違う幾つかの世界で「悪」と戦うのだが、弟を連れ去ったのは、誰もが目をそらしてしまう「奇形」の顔の女の子、ミアちゃんだった。この女児にもモデルがいて、執筆当初、買い物途中に偶然見かけたのだという。
 「うちの子と同じくらいの年齢で、そばにすごく疲れたお母さんがいた。僕は目を離せず、何の反応もできなかったんです。言葉にできない風景があって、何かを言っておかなければと思った。次の日、この小説が最後まで出来上がりました」

 どんな奇形かと言うと、意外なことに主人公は第一印象で「美しい」と思うような奇形なのである。「目は大きく、こぼれ落ちそうなほどで、鮮やかな二重瞼と異様に長い睫毛に縁取られていました。鼻筋は通っていて高く、やや厚目で濡れた上唇は、子どものものとは思えぬほど魅力的でした」。ネタバレを避けたいところだ。これがなぜ奇形なのかは書かない。でも、たしかにこんなに美しい目鼻口が奇形になりうる。
 思い出したのは岡田温司ルネサンスの美人論』(一九九七)である。ペトラルカ『カンツェニエレーレ』についてこう述べる、「周知のようにその詩集には、詩人の意中の女性ラウラへの愛が歌い込まれている。しかし、よく指摘されるように、三六六編からなるこの詩集のどこにも、ラウラはその完全な姿で登場することはない。彼女はいつも、美しい頭髪、手、足、瞳等々の断片的なイメージとして、われわれの前に提示される」。詩集のどこにも、ってのは言いすぎかなと思うけど、言いたいことはわかる。岡田はルイジーニ『美しき女性の書』からこんな例を紹介している。

 画家ゼウクシスは、まず自分の目の前で、その町の乙女を裸にして、その中からたった五人の娘だけを選び出しました。そうして、自然がその一人一人に与えたいちばん美しい部分を取り出し、それを使って、いとも完璧で他に並ぶもののない女神の肖像を造り上げたのです。

 大昔のイタリアはそれでうまくいったのだろう。『「悪」と戦う』ではそれが「悪」を招く。さて、ここからはネタバレ。最後にミアちゃんの奇形は「補修」される。たまたま私は「文芸」〇九年冬号を持っており、初出連載の最終回が載っている。そこではこうだった。単行本の同じ個所も示しておく。

 ミアちゃんは、二重瞼でオカッパで、元気な女の子でした。体重をあと三割落とし、年中出てくる鼻汁をこするため、赤剥けした鼻先をケアすれば、かなりの人は可愛いというのではないでしょうか。

 ミアちゃんの第一印象は、まず活発だということです。次の印象は、やっぱり活発。で、その次も、活発。容貌は……森三中大島美幸に、よく似ている。スタイルも。角度によっては、南海キャンディーズしずちゃんにも似ている。みればみるほど味わい深い。その顔には、性格の良さが表れています。ミアちゃん、どっちにせよ、おじさんは好きだぞ、きみの顔。

 他にも重要な改稿があって、そこは次回に。