「新潮」7月号「昭和以降に恋愛はない」大江麻衣(その1)

 クイズをひとつ、「貞久秀紀と松本圭二四元康祐杉本真維子と斎藤恵子と小笠原鳥類と藤原安紀子多和田葉子岸田将幸の共通点は何か」。答えは、「中原中也賞の候補になったけど受賞できなかった」。彼らをしのいだ受賞者たちを確認すると、長谷部奈美江、宋敏鎬、中村恵美、久谷雉、須藤洋平など、読んだ記憶の無い詩人がたくさん居る。私の実感では中原中也賞というのは、後にあまり活躍しなくなる新人に与えられることの多い賞である。今年は、なかにしけふこ『The Illuminatated Park 閃光の庭』が候補になったものの、受賞したのは文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』だった。さて、十年後のなかにしと文月はどうなってるか。たぶん私の実感は修正せずに済むと思う。
 確認しておけば、私はそれで構わない。文学賞は第一に主催者と選考委員のアピールの場である。良い作品を選ぶというのは第二だ。新潮社から三島由紀夫賞を与えられた東浩紀が、先月29日のTwitter で「新潮社がぼくの小説に賞を与えたのは、だれを祝福するためなのでしょう。普通は作家を祝福するためであり、さらに根本的には、小説の、そしてそれを支持する読者を祝福するためのはずです」と書いていた。「普通は」を「建前は」と書いてくれれば、同感できる。「本音は」と書けば、賞は新潮社が自社を寿ぐイベントだろう。主催者はイベントを成立させるのが第一だ。だから文学賞ってしばしば、賞に値する作品が見つからなくても、適当な駄作を選んで不満たらたらの選評を付けて受賞させる。作者と読者への祝福というよりは冒涜だ。「普通」とはそういうことではないか。繰り返し確認すれば、私はそれで構わない。イベントには華があるもの。
 もちろん「第二」も「建前」も大事である。そこでややこしくなる。中原中也賞の選考委員として、高橋源一郎は今年は大江麻衣『道の絵』を推していた。落選がなんとも残念だったのだろう、この詩集の一篇「夜の水」を自身のTwitter に転載した。すると反響があって、『道の絵』は再編集され、『昭和以降に恋愛はない』と改題されて、「新潮」七月号に掲載されることになった。それは読売新聞の時評でも取り上げられた。賞の主催者の「本音」としては不愉快だろうが、これもイベントの華のひとつとして読者は楽しめる。読後感を言うと、「夜の水」は『閃光の庭』の足元にも及ばない、なにより、詩というよりは以前に述べたナオコーラ的ゼロ度を想起させるエッセイだった。私の関心を誘ったのは、高橋の推薦の弁である。