「文芸」夏号、中村文則「王国」、「群像」5月号、伊坂幸太郎「PK」

 文学がキャッチコピーみたいになってる。問題を提出するのが文学の仕事だろう。なのに、「人生を三〇字以内でまとめよ」みたいな模範解答でオチをつけようとする。そんなオチ無しでも作品は仕上がったのではないか、と思う。解答を据えないと気の済まない作家の強迫心理の問題ではなかろうか。
 「文芸」夏号の中村文則「王国」に『掏摸(スリ)』の木崎が出てきた。最強の悪というキャラはそのままだ。人生に飽き飽きしているのもそのまま。そして今回は、自分の作ったシナリオ通りの人生を主人公に歩ませようとする。これは『悪と仮面のルール』の父親みたいだ。木崎の最強っぷりは、あらゆる登場人物の行動を読み切れる、全知の神のようなメタレベルに居ることで描かれる。そのような位置に立つことで木崎は自信を得る。これまで述べてきた、宇野常寛佐藤友哉にも共通する志向だ。木崎のように、簡単に人生わかりきってるよ、という感じで語る登場人物はとても多い。
 主人公は木崎の弱点を突くような一言を言う。木崎は人生に退屈している。だから、どんな相手に連戦連勝しようと、「何かを達成したとしても、あなたは虚しさを感じるだけでしょう」。ところが木崎の余裕は変わらず、笑って言う、「その時は、虚しさを楽しめばいいだろう。……それがこの世界の答だ」。自分の虚しさのさらにメタレベルに昇ろうとするあたり、木崎の言いそうなことではある。しかし、本当に自分の虚しさを自分で楽しむことはできるだろうか。そんなキャッチコピーみたいなセリフがあるだけで、そんな姿は無く、つまり説得力が無いのである。「群像」六月号「創作合評」で島田雅彦が「作品を蠱惑的なディテールで埋めてゆくのがつらくなって、適当にアフォリズムで逃げた」と述べているのが、このセリフについてだとすれば、私も同感だ。
 「群像」五月号の伊坂幸太郎「PK」もキャッチコピーで決めている。結末に驚いた。唖然とした。滅多に無いことである。主人公は決断を迫られている大臣で、この彼を最後に応援するのがキャッチコピーだ。この薄っぺらなキャッチコピーが残念だったのである。「がんばろう東北」という掛け声だけで、東日本大震災の難局を乗り切ってしまおうとするのと同じで、問題が軽く見えてしまう。伊坂は同じ雑誌の七月号にも同工異曲の「超人」を発表している。「PK」より出来が悪いからネタバレしても罪にはなるまい。そこで大臣を応援するキャッチコピーは「間違いは、それを正すのを拒むまで間違いとならない」である。こんな一言だけで悩みにオチがついてしまうと、たいした悩みぢゃなかったんだなあ、と思われてしまう。「PK」の場合、結末を作る技術に感心するだけになり、主人公には軽さしか感じない。他に書きようがあったろうに、もったいない作品だった。
 もちろん、「問題を提出するのが文学の仕事だ」というのもキャッチコピーである。