「新潮」10月号、朝吹真理子「流跡」ほか。

 これまで私は十三回も東浩紀ファントム、クォンタム」について書いてきた。うまく読めてないからそうなる。量子脳やSFの素養が無さすぎるのが一因かなあと思って、ペンローズやイーガンを読んだ。読後感は、「理系方面をマニアックに読み込んでも、『新潮』の読者には意味が無いな」。その間、浩紀は書き直しを進めており、題名を『クォンタム、ファミリーズ』と改めるようだ。十二月に出るという。そしたら今度はもっと上手に読みたい。ほんとに「ファントム」面が消えた作品だったら残念だけど。
 永井均が6日放送のNHK爆笑問題のニッポンの教養」に出ていた。御題は彼の十八番の「私」問題だ。「私」が同一の分身ふたつに分かれたとしても、「もし一方が私なら他方は他人である」というやつだ(『私・今・そして神』2004)。番組を見てるうちに、長らく親しんできたこの説が、初めてうさんくさく思えてきた。永井の語りというより、テレビであっさり説明されてしまう凡庸さが醜く映ったんだろう。それは、これまで何度かふれた、佐々木敦による『存在論的、郵便的』の要約を幼稚と思った感覚と、きっと近い。永井も佐々木も「この私」から離れて「私」を考えることができないのだ。
 分身が現れれば、「私が二人いる」と思うのは当然だろう。そのとき、「私が二人いるけど、あっちは『この私』ではないから、あっちは私ではない」と考えるのは強引ではないか。『存在論的、郵便的』や「ファントム、クォンタム」の魅力はそんな疑問を勇気づけてくれるところにある。そして、今年いろんな新作小説を読むようになって気付いたのは、「私の複数性」は浩紀以外の作家たちにも共有されている、ということだった。それは「世界の複数性」とも重なることが多い。もちろん、そんな小説はむかしっからあった。けど、たとえば『順列都市』にはなぜか、永井佐々木と似た凡庸さしか感じない。

 もののけになるか、おにになるか、不定形の渦から目をはやし、はじめはくにゃくにゃしていた身体がしっかりとした顔をつくって歩きはじめる。角ははやさなかった。ひとになった。

 本を読んでるのか読んでないのか、「もう何日も何日も、同じ本を目が追う」とループに閉ざされた者の、とりとめの無い意識が、こんな物語を始める。「新潮」十月号の朝吹真理子「流跡」だ。当然のように物語はとりとめも無く場面を替え、語り手は男になったり女になったり、そしてとりとめも無く終わる。要するに、男でもあり、女でもあり、そのどちらでもない。断言を排した物語は終りに言う、「書かれたものは書かれなかったものの影でしかなく、いつまでも書き尽くすことはできない」。これを、「この私」は「いろんな私」の影である、と私は読み替えた。「私は何者でもない」ということもまた「私の複数性」を感じさせる。
 由吉寿輝系の文体だ。「この私」を最初にぼやけさせたのが、古井由吉の文体だったかもしれない。