新潮昨年11月号、飯塚朝美、週刊朝日6月26日、東浩紀

 あなたを望んで産んだわけではない、と親に言われた娘の気持はどんなだろう。少なくとも、親はそんなことを言うべきではない。しかし、往々にして文学新人賞の選評にはそんな文句が現れる。しかも、親の眼に映る子ども像の多くは実像であるのに対し、選考委員の作品像はゆがんでいる。そんな眼で選ばれた呪われた新人が何人も居る。
 たまたま「新潮」昨年十一月号の飯塚朝美「クロスフェーダーの曖昧な光」を読めた。新潮新人賞受賞作である。選評は、五人の選考委員すべてが、嫌々ながらこの作品を選んだことを報告していた。たぶん、飯塚にとっては受賞が同時に文壇からの抹殺を意味するような事態ではなかったか。
 委員が作品の欠陥を指摘するポイントはほぼ一致していて、「光と闇の対立」という主題が古色蒼然たる紋切型だ、ということである。しかし、新しい物語など生まれようが無いこのポストモダンの御時世に、この言い様こそ紋切型に思える。何より、この作品での光と闇は、彼らの指摘するような意味での紋切型だろうか。光が闇であることを、それも、光が闇以上に暴力的な力を発揮する闇である瞬間を即物的に描いた作品として、私には読める。けっこう新鮮ではないか。
 おまえには何も新しいところが無い、は批評として意味が無い。ほぼすべての作品がそうなるはずだから、特定の作品を読んだ証明として役に立たないのである。誠実に読んでない証拠にさえなる。五人の選評はその好例ではないか。
 「週刊朝日」六月二六日号に東浩紀が『1Q84』の評を書いた。これがまさに「おまえには何も新しいところが無い」の典型だった。不誠実の事例だとも思う。浩紀が批難するのは、『1Q84』に「新境地」が無く、春樹が「還暦を迎えてなお『自分探し』や『父との和解』にこだわる作風」を変えずにいることだ。
 しかし、浩紀のいま書いている「ファントム、クォンタム」こそ、村上春樹による下地を名指しで利用し、男女二人の主人公がそれぞれ別個の世界で自分探しや家族との和解を求める小説ではないか。何より、『1Q84』においては「自分探し」も「父との和解」も副次的な物語に過ぎない。追記。1Q84』、読み終わりました。「副次的な物語に過ぎない」は言いすぎでしたね。
 とはいえ、いま熱中して『1Q84』をBook2の第18章まで読んでる私でさえ、「新境地が無い」という点には同意できる。女主人と男性のペア、秘密の組織、人の体に住みついて闇の力を発揮する存在、などなど、村上作品で見慣れたキャラクターが多い。しかし、それはそうだが、それを言っても始まらないのだ。
 文学の終りを見届けるべく二十年ぶりに文芸誌をチェックするようになって、昔と比べて本当にあきれるほどひどいと思う分野が批評だった。いろんなひどさがあるが、今日は批評に不誠実の余地を与える紋切型の一例をあげた。
 追記。こんな批評家同士が言い合うと不毛になるのは想像できよう。上記の「週刊朝日」の記事に反応して小谷野敦が変な文章のブログを書いた。彼は記事を誤読している。これを読んで浩紀が苛立ちをブログに書いた。ところが、誤読を招いた理由がわからないようだ。つまり、この応酬には論点の成立する余地が無い。ハゲがハゲを励まして一層激しくハゲ合っていく、とでも言おうか。