師走の一番、金原ひとみ『憂鬱たち』

 帰省中で手元に資料が無いから今月の一番は適当に。「新潮」で連載されていた「四方田犬彦の月に吠える」の最終回「アドルノ事始め」が面白かった。内容はあんま覚えてないから別のを選ぼう。金原ひとみ『憂鬱たち』を。精神科に行かねばならない女性が主人公である。しかし、たどりつけない。行きたくないのだろう。寄り道をしてしまう。あるときはバイトの面接を受けてそこでセックスしたり、またあるときは耳鼻科に入ってそこで鬱な悩みを訴えたり。そのひとつひとつが短編になっている連作集である。それらすべてに、カイズ、ウツイ、という男が登場する。あるときは店員だったり、税理士だったり、警備員だったり。彼らが主人公に関わろうとすれば鬱陶しく、関わろうしなければもどかしい。そのたびに苛立ちや妄想をたくましくする主人公の心理描写が、小説の中心である。七篇あるうち私は「ミンク」が気に入った。斎藤環『関係の化学としての文学』が、これにちょっとふれている。関係の複数性を描いた、ということで、なるほど、各篇のカイズ、ウツイはそれぞれ異なる可能世界の存在だ。そう考えれば、これもいかにも現代文学である。
 文学の終わりを見届けよう、というつもりで始めたブログだが、いまは、いかにして文学が生き延びるのか見届けよう、という気になっている。終わりの危機意識と現代文学の新しさはひとつのものらしい。この一年、「私や世界の複数性」が描かれた小説の多さに驚いた。いかにも現代文学、とはこのことだ。もっとも、その新しさも勉強不足だ。帰省すると、実家に残したままの本を読む。さっきまで武田泰淳を読んでいた。彼にはこんな言葉があるらしい、「現在なるものは、たった一つではなく無数であり、明瞭なやうに見える一世界は、実は無限の顔面と心とを以って茫漠と生きてゐるのである」。すでに戦後文学にそんな見方があったのだな。「文学の終わり」にしても、明治の短歌滅亡論までさかのぼる必要は無いが、昭和戦前の川端康成文芸時評に書いてあることと、現在は似ている気がした。来年はもっとよく考えたい。
 いろんなブログの感想文も今年はよく読んだ。「よみやすい」と「おもしろい」が高評価の大多数の価値基準であることを知った。誰でもブログを開設できる時代だから、この程度の無内容な感想が大洪水的発信力を持ち、安定多数を得て人々が無教養の恥じらいを失うのは無理も無い。私のブログも大洪水のH20の原子ひとつぶである。とはいえ、「よみおも」にだけはなりたくないなあ。これも来年の目標とし、「よみやすい」も「おもしろい」も使わないブログを目指そう。