去年と今年の新潮新人賞、特に選評

 飯塚朝美は三島由紀夫っぽい。いまどき珍しい本格志向である。昨年に新潮で新人賞を獲った「クロスフェーダーの曖昧な光」には『金閣寺』が使われていた。この時の選評は後に「群像」の「侃侃諤諤」でも話題になったように、ほとんどの選考委員がとげとげしかった。ほかの委員はよそよそしかった。何より、私には彼らが作品をまともに読んでるようには思えなかった。いまは文学をなめきった作家の方が歓迎される時代なのだ。選考委員はベテランに甘く新人に厳しい、というのが「侃侃諤諤」の見方だが、実際は、飯塚の本格志向が委員たちの気に障ったのだろう。深刻な作風の方が能天気に文学を信仰してるように見えるわけだ。
 「新潮」十一月号は今年の新人賞が発表されていた。赤木和雄「神キチ」である。読んでみると、典型的に「文学をなめきった」タイプである。たとえば、首吊り自殺を見物する若者が現れて、それがいかにもお笑い芸人の一人コントのような口調なのだ。

 「あ、でもボク、飛び下りの方が見たいな。やっぱり地面に叩きつけられてパチャアンてなるとことか超見たいですよね。あのぅ、飛び下りの方が良くないですか?飛び下りに変えた方が、絶対イイと思いますよ。首吊りだと、のどとか苦しいし」(略)「あ、あと、死んだ後、ボクの所に化けて出ないで下さいね。ボク、幽霊とかダメなんで。出たら、殺虫剤とかムチャクチャ吹き付けますんで、シュウウゥって」(略)「あれェ、そういえば、遺書とか見当たらないですけど、ないんですか? ないです? でも、そこはちゃんとやっといて欲しいなぁ」

 選評は、昨年と同じ選考委員の面々が絶賛だった。「典型的に面白い小説」を面白がっている。ちょうど、お笑い芸人が「ここは笑うところです」という感じで振る舞えば、客が笑ってくれるのと同じ反応だと思った。問題は昨年同様、どう考えても連中がまともに作品を読んだとは思えない点である。たとえば町田康はこう言っている。

 スピリチュアルブームなんて言葉に象徴されるような、このところ日本国が陥っている宗教的混乱状態をそっくりそのまま描いた小説である。といって重要なのは、戯画的に描いたのではなく、そっくりそのまま、という点で、この小説を読んだ人は爆笑しつつも、この小説の世界は現実を極度に歪め、極端に誇張して描いたもの、と頭から思い込むに違いないが、建築現場の情景がそうであるように、これはほぼそのまま、私たちが現実に生きる社会を描いたものである。

 いや、どう読んでもこの小説の特徴は、お笑い番組の感覚で書かれた戯画調にある。「建築現場の情景」の「現実」っぽい部分は「宗教的混乱状態」が書かれてないからそうなるだけだ。むしろ凡庸な場面であり、それはそこで働く主人公の造形が凡庸だからである。「宗教的混乱」はすべて異様な「神キチ」キャラたちがもたらすなかで、この主人公ひとりが普通の人であることを、町田はなぜ読めないのだろうか。「そっくりそのまま描いた小説」の若者が引用のように話すわけがない。申し添えれば、この若者の風体も間違い無く「現実を極度に歪め、極端に誇張して描いたもの」だ。やはりお笑い芸人の過剰な扮装を思わせる。
 「クロスフェーダーの曖昧な光」については前に書いた。受賞後の作品はやっと「新潮」十月号に載った。「地上で最も巨大な死骸」である。主人公は動物園の象の飼育係だ。心の奥底で彼は死にたいと思っており、象がそれを見抜いている。そして象は主人公の奥底を結末に向かってじわじわと引きずり出してゆく。やっぱり三島っぽい本格志向だった。笑える、という点ならむしろ、私はバラエティー番組に紛れ込んだリクルートスーツのような飯塚の違和感を笑いたい。どこまで彼女は逆風に堪えるだろう。書評をいくつか見たが、好評とは言い難い感じだった。